2020年の日本100名城攻城の旅を始めました。
攻城シリーズは、2019年10月の大阪完結篇と和歌山完結篇以来となります。
2020年シーズンのスタートに選んだのは、四国・愛媛県です。
というわけで、本稿では、愛媛県内の日本100名城と続日本100名城の攻城の様子を紹介いたします!
愛媛県内の日本100名城と続日本100名城
愛媛県内で日本100名城と続日本100名城に選定されているのは、以下の7城です。
- No.79「今治城」
- No.80「湯築城」
- No.81「松山城」
- No.82「大洲城」
- No.83「宇和島城」
- No.178「能島城」
- No.179「河後森城」
実に多くの城が選定されております。しかも、県内各地に散らばっておりますので、訪れるのもなかなか大変です。
これほどまで多くの城が選定されている都道府県は、長野県、静岡県、愛知県、兵庫県といったところでしょうか。
前述のとおり、愛媛県内の城は散在しているので、今回はレンタカーで廻ることにいたしました。
なお、本稿では番号順に紹介してまいりますが、最後に旅程も紹介しておりますので、参考になれば幸いです。
No.79「今治城」
まずは、今治市にある日本100名城No.79「今治城」です。
今治城の場所を地図上で示すとこちら
今治城は、1602年に、築城の名人として名高い藤堂高虎によって築城された平城で、かつ、海城です。
堀には海水が取り入れられており、堀の中を海水魚が泳いでいるという珍しい城です。
堀の向こう岸に、空洞になっている場所から海水が流れんでおります。
堀の石垣の下の方が若干黒ずんでおりますが、これは海水の干潮・満潮による水位の変化によってできたものです。
駐車場から鉄御門へとつながっている道です。
鉄御門は、2007年に再建された門で、扉や柱に鉄板が張られた門になります。
さて、以前、こちらの記事で、「真田石」という石を紹介したことがありました。
真田石とは、真田昌幸が上田城築城の際に太郎山で掘り起こした石で、上田城の石垣に用いられている一際大きな石のことです。
実は、この今治城の石垣にも、一際大きな石がありました。
こちらは、勘兵衛石と呼ばれている石です。勘兵衛とは、藤堂高虎の重臣・渡辺勘兵衛の名前に由来しております。
重さ約16.5トンとのことですから、どれだけ大きな石かがお分かり頂けるかと思います。
この勘兵衛石の右手にはすぐ鉄御門がありまして、その鉄御門を潜って城内へと入っていきますと、藤堂高虎像が出迎えてくれます。
藤堂高虎像といえば、三重県の津城でも藤堂高虎像がありましたっけ。
あちらは鎧兜を身に付けていたので、ずいぶんと雰囲気が異なります。
今治城の天守は1980年に再建された模擬天守になります。天守内は入ることができまして、中には刀剣や鎧などの展示がされております。残念ながら、最上階以外は撮影禁止となっておりますので、写真は撮っておりません。
また、天守への入場券で他の櫓にも入ることができまして、他の櫓内にも美術品等が展示されておりました。なかなか見応えのあるお城だったと思います。
No.80「湯築城」
続いて、松山市内にある日本100名城No.80「湯築城」です。
湯築城の場所を地図上で示すとこちら
湯築城は、道後温泉駅の一つ隣の駅、道後公園駅の目の前にあるので、非常にアクセスしやすい場所にあるかと思います。
湯築城は14世紀半ば頃に築城されたと言われておりますが、詳細はまだ定かになっておりません。
二重の堀に囲まれた城郭は、戦国期には稀なスタイルだったようです。
現在は、武家屋敷が復元されており、当時の様子の再現や、発掘調査に関する資料等が展示されておりました。
上は、当時流行っていた連歌の場面を再現しているものです。
現在は道後公園として、松山市民の憩いの場所になっている印象でした。縄張りを見学しておりましたら、子供たちの元気な声が聞こえてきました。東京に住んでいると、外で遊ぶ子供たちの姿というものをなかなか見ないので、こうして元気に遊ぶ子供たちの姿に、自分自身の過去を思い出させられる等、懐かしさを覚えさせられました。
No.81「松山城」
続いては、同じ松山市内にあります、日本100名城No.81「松山城」です。
松山城の場所を地図上で示すとこちら
松山城は、以前、JR四国のバースデイきっぷで四国周遊をした際に訪れたことがありました。
その際に天守内にも入って中を見学しておりますので、今回はスタンプだけ押させて頂きました。
観覧券売り場の方にスタンプだけ押したい旨を伝えると、スタンプを貸して頂けました。
(公式サイトにも天守内を観覧せずにスタンプだけ押せる旨が記載されておりましたので、スタンプだけというのは問題ないようです。)
余談ですが、前回訪れた際には、次は二ノ丸も訪れてみたいと書いていたのですが、すっかりそのことを忘れてしまっておりまして……
今回も二ノ丸を訪れることなく松山城を後にしてしまいました。
(また四国を訪れる理由が出来てしまいました(笑))
No.82「大洲城」
次は、大洲市にある日本100名城No.82「大洲城」です。
大洲城の場所を地図上で示すとこちら
大洲城のはじまりは、14世紀前半、宇都宮豊房の居城であった地蔵ヶ獄城と言われております。
その後、1595年に入城した藤堂高虎によって近世城郭へと改造され、1609年前後に天守が築かれたとされています。
1888年まで天守は存続したのですが、取り壊されてしまいます。
もっとも、2004年に再建され、現在に至っております。
大洲城近くの有料駐車場に車を止め、歩いて大洲城へと向かいました。
なかなか立派な天守がお出迎えをしてくれます。
天守台に上がる途中、トイレがある広場があるのですが、そこからのアングルが「ザ・お城」と言った感じの写真が撮れるのでオススメです(笑)
ちなみに、その広場からは肘川とJR四国の列車を眺めることができます。
たまたまタイミングが合ったため、肘川を横断する列車の姿を撮影することができました。
今回持って行ったカメラが、FUJIFILMのX100Fだったため、望遠で撮影することができなかったのが残念です。
大洲城のスタンプは天守内にあるため、観覧券の購入が必須でした。ただ、天守だけでなく、臥龍山荘との共通券もありますので、共通券も購入して臥龍山荘も訪れると良いかと思います。
今回、臥龍山荘も訪れましたが、臥龍山荘については別稿で紹介する予定です。
臥龍山荘についての記事を公開しました!
No.83「宇和島城」
続いて、宇和島市にある日本100名城No.83「宇和島城」です。
宇和島城の場所を地図上で示すとこちら
宇和島城は、藤堂高虎が1596年から6年かけて近世城郭化した平山城です。
愛媛県内の城は藤堂高虎の名がよく出てきますね(笑)
こちらの門を潜って、天守台のある場所へと登っていきます。
道中、苔で緑になった石垣を目にしました。
これまで多くの城を見てきましたが、緑の石垣は珍しいなと思いまして撮影したしだいです。
写真で改めてみると、そこまで緑にはなってませんね(苦笑)
石段を登り続け、ようやく天守の姿を見ることができました。
宇和島城は、現存天守12城の中の一つです。
先ほど、藤堂高虎公の名前を挙げましたが、こちらの天守は高虎公が築城したものではありません。
宇和島城は1666年に、伊達宗利公によって天守が建て替えられております。従いまして、現在の天守は伊達宗利公によって建てられたものになります。
「伊達」という名前から「あれ?」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんね。伊達宗利公の父親は伊達秀宗公(宇和島藩初代藩主)です。そして伊達秀宗公の父親は、仙台藩初代藩主の伊達政宗公です。
つまり、宗利公は政宗公の孫にあたります。
もっとも、秀宗公は正室との間に生まれた子供ではなかったため、このような運命を辿ることになったようです。
天守からは海を眺めることができました。
ここから宇和島の郷土料理である「鯛めし」の鯛が水揚げされているのでしょうか。
宇和島城を見学した後、ちゃんと鯛めしを頂いてから次の目的地へと向かいました。
No.178「能島城」
次は、今治市にある続日本100名城No.178「能島城」です。
能島城の場所を地図上で示すとこちら
地図でご覧いただくとお分かり頂けますが、能島城に行くには、しまなみ海道を通っていくことになります。
100名城攻城の旅のおかげで、ついにしまなみ海道デビューです。
もっとも、自転車ではなく自動車で、というのが心苦しいですが……
さて、能島城ですが、14世紀中頃以降に築城されたと考えられておりますが、築城者は明らかになっておりません。
主な城主は村上氏で、瀬戸内海に勢力を誇った村上海賊の一族と言われております。
1587年、小早川隆景にしたがって筑前に移る際に、能島城は廃城になりました。
能島城のスタンプは、村上水軍博物館という施設内に設置されております。入館料を支払う必要がありますが、JAFの優待割引を利用できるので、JAF会員の方はJAFの会員証を忘れずに持っていきましょう!
村上水軍博物館の2階が常設展示場になっておりまして、村上氏や能代城の歴史について学ぶことができます。
また、3階からは能島を眺めることができる展望デッキに接続しております。
正面に見える小島が能島になります。
以前は能島に上陸することができたそうなのですが、現在、能島の一部が崩れているそうで、上陸することができなくなっているようです。
ですが、正面にある建物、「能島水軍」でやっている潮流体験で能島の近くまで行くことができるようです。
ところで、「どこか能島を見ることができる場所はないものか?」と思いまして、Google Mapを眺めていたところ、一箇所、能島を見ることができるのではないかと思われる場所がありました。
物は試しにと思いまして、車を走らせて行ってみたところ、能島を眺めることができました!
X100Fは単焦点ですので望遠で撮影することはできませんでしたが、能島の全体を眺めることができました。
ちなみに、その場所とはカレイ山展望台というところです。
カレイ山展望台からは、瀬戸内の島々を一望することができました。
この日は天気が良く、視界も良好だったため、広島県の三原市まで見えました!
カレイ山展望台までの道は道幅が狭いところもあり注意が必要ですが、瀬戸内の素晴らしい眺望を楽しむことができるので、オススメの場所です!
No.179「河後森城」
最後は、北宇和郡松野町にある続日本100名城No.179「河後森城」です。
河後森城の場所を地図上で示すとこちら
河後森城の築城年代や築城者は不明ですが、1558〜70年の間には存在していたようです。その当時の城主は、河原淵教忠(かわらぶちのりただ)公です。
河後森城は標高171mの丘陵に築城され、U字形に曲輪が配列されていました。
区分としては山城に区分される城ですので、見学には体力が必要です。一部、滑り止めなどが講じられてはおりましたが、足腰に不安がある方は厳しいかと思います。
駐車場から、ぬかるんだ道を歩いて登ってまいります。
途中、井戸跡がありました。
ここからさらに登っていきますと、西第十曲輪に到着です。
西第十曲輪はこちらの門が目印です。
ここには復元された堀立柱建物がありまして、スタンプはこちらに設置されております。
スタンプを押したのでここで引き返しても良かったのですが、折角なので本郭まで行ってみることにしました。
モヤがかかっていて、幻想的な風景です。
道幅は狭い上にぬかるんでいるので、攻城に苦労します。
ようやく本郭に到着しました。
本郭からは、松野町を一望することができます。
反対側に目をやると、東側の曲輪が見えます。東側の曲輪にも行けるようなので、足を運んでみることにしました。
道中、門があったのですが、ここを潜って先に進んでしまうと下山ルートになってしまうようなので深追いは禁物です。
この門の隣に曲輪があったのですが、登ってみたところ、古城と書かれておりました。
東側には3つの曲輪が配置されており、これらは古城と呼ばれたようです。
さらに、奥へと進んでみると、南側の曲輪にたどり着くことができます。
南側の曲輪は新城と呼ばれていたようです。
新城と呼ばれている曲輪からは、西第十曲輪と本郭を見ることができました。
古城、新城とあるのであれば、本郭は一体なんだったのだろうか?と疑問を感じずにはいられなかった帰り道でした。
実際に訪れた順番(旅程)
以上、愛媛県内の100名城を紹介してまいりましたが、本稿では、番号順に紹介しました。
しかしながら、実際に訪れた順番は次の通りになります。
1日目
- ANA583便で松山空港に到着
- 空港付近で車を借りて、河後森城を目指す
- 河後森城見学後、宇和島城へ移動
- 宇和島城見学後、大洲城へ移動
- 大洲城見学後、臥龍山荘を見学
- 大洲市内にて一泊
2日目
- 大洲市から能島城へ移動
- 能島城見学後、今治城へ移動
- 今治城見学後、湯築城へ移動
- 湯築城見学後、レンタカー返却
- 松山にて一泊
3日目
- 松山城にてスタンプを押印
- ANA598便で羽田空港へ移動
反省点
2日目、松山市内に戻ってきたのが遅かったため、松山城を訪れるには時間不足に陥ってしまいました。
2日目に大洲市内を出発するのがもう少し早ければ、そして今治城を見てから能島城に行っていれば、2日目に松山城まで廻れたと思います。
今回は余裕をもって2泊3日の旅程にしましたが、城だけであれば1泊2日でも十分だったと思います。
最後に
というわけで、愛媛県の日本100名城と続日本100名城の攻城の様子を紹介いたしました。
四国の中でも愛媛県は100名城に選定されている城が多く、非常に見応えがあります。しかも、現存天守12城のうち、2城もありますからね。
さて、愛媛県内の100名城を制覇しましたので、四国にある100名城は全て制覇したことになります。
残る100名城はあと30城ちょっと。ゴールが見えてまいりました。
次はどの地方を攻めようか?
毎日考えては航空券など検索しております(笑)
2020年内の制覇を目指して、引き続き計画を練っていこうと思います。
それではー!
最後までご覧頂きありがとうございました。
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