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和歌山県内の日本100名城と続日本100名城を制覇してきました!

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※2020年1月12日更新

2019年まで訪れたことがなかった都道府県の一つに、和歌山県がありました。

和歌山県は、那智の滝や友ヶ島など訪れてみたい場所があったのですが、今回は100名城を巡るために、2回に分けて訪れました。詳細は後述しますが、和歌山の100名城は、ほぼ東端と西端に存在するため、一度に訪れようとするとそれだけで一日が終わってしまい、効率的に攻城することができません。そんなわけで、2回に分けて訪れたしだいです。

というわけで、本稿では、和歌山県の日本100名城と続日本100名城について紹介します。

和歌山県内の日本100名城と続日本100名城

和歌山県内で日本100名城と続日本100名城に選定されている城は、次の2城です。

  • No.62「和歌山城」
  • No.167「新宮城」

わずか2城ではありますが、前述の通り、距離がかなり離れているため、短時間で廻るのは困難です。

鉄道で和歌山駅と新宮駅間を移動するにも、特急でも3時間かかります。おまけに本数も少ないので、さらに難易度が上がります。

そんなわけで、2回に分けて訪れることにしました。

なお、時系列では、新宮城を先に訪れておりますが、本稿では和歌山城、新宮城の順に紹介いたします。

No.62「和歌山城」

f:id:tidus_tabilog:20201008102429j:plain まずは、和歌山市にある日本100名城No.62「和歌山城」です。

和歌山城の場所を地図上で示すとこちら

和歌山城は、大阪の100名城攻城の際に合わせて訪れました。

関西空港を利用したため、関西空港から南海鉄道を利用して和歌山へと向かったわけです。

大阪の100名城攻城についての記事はこちら

和歌山城は、1585年に、羽柴秀吉が弟・羽柴秀長に命じて築城させたのが始まりです。

関ヶ原の合戦後は、浅野幸長が入城し、城は拡張されました。

その後、徳川家康の十男・徳川頼宣が入りまして、以後、紀州徳川家の居城となります。 f:id:tidus_tabilog:20201008102501j:plain

現在の和歌山城には大天守と小天守があります。

こちらの天守は、1958年に、1850年に再建された当時の図面を基に、鉄筋コンクリート造で復元されたものになります。 f:id:tidus_tabilog:20201008102526j:plain

天守には入ることができ、周囲を一望できるようになっています。また、資料なども展示されております。 f:id:tidus_tabilog:20201008102555j:plain

和歌山城の見所の一つ、御橋廊下です。

二の丸と西の丸を往来するためだけの廊下です。当時は藩主と付人だけが通ることが許されておりました。

現在は誰でも通ることができますが、靴は脱がなければならないので、ブーツなど脱ぎ履きが大変な靴では行かない方が良いでしょう。

非常にあっさりとした紹介になってしまいましたが、徳川御三家の一つである紀州徳川家の居城だったこともあり、和歌山城は非常に規模の大きい城郭でした。

おまけ:徳川吉宗生誕の地

紀州徳川家出身の者として、第8代将軍・徳川吉宗公がおります。

和歌山は、その吉宗公の生誕地なわけです。 f:id:tidus_tabilog:20201008102620j:plain

和歌山城の近くに、ひっそりとではありますが、石碑が建てられておりました。

石碑の場所を地図上で示すとこちら

和歌山城を訪れた際には、ちょっと足を伸ばしてみてはいかがでしょうか?

No.167「新宮城」

つづいては、新宮市にある続日本100名城No.167「新宮城」です。

新宮城の場所を地図上で示すとこちら

新宮と書いて「しんぐう」と読みます。「にいみや」とか「しんみや」ではありませんのでご注意を。

前述の通り、新宮城は和歌山城とは別の機会に訪れております。正確に書きますと、三重県の100名城巡りをした際に合わせて訪れました。

三重県の日本100名城と続日本100名城攻城の旅についてはこちら

1600年、浅野幸長は家老・浅野忠吉に対して新宮の地を分与します。浅野忠吉は1601年から築城を開始し、これが新宮城の始まりです。

しかしながら、一国一城令によって一度は廃城となってしまいます。

1618年、築城許可がおりたため、再び築城を開始します。

ところが、1619年に、主家の浅野長晟(ながあきら)が安芸広島に転封となったため、忠吉も広島へと移ってしまいます。

そこで、代わって入封した水野重央(しげなか)が築城工事を引継ぎまして、1633年に水野重良が完成させました。

その後、明治維新まで水野氏が治めます。

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現在の新宮城は石垣が遺構として残っておりますが、公園のような場所になってしまっております。 f:id:tidus_tabilog:20201008102812j:plain

こんな感じです。こう見えて、実はここ、本丸後です。

ちなみに、新宮城跡には、「日本一短い」ケーブルカーの軌道跡があります。距離はたった72メートルです。 f:id:tidus_tabilog:20201008102840j:plain

かつて、新宮城の鐘ノ丸では旅館が営まれておりました。その旅館に宿泊する方のために敷かれたケーブルカーだったそうです。

現在は、ご覧の通り、雑草が生い茂っている状態です(笑)

新宮城は熊野川河口近くに築城されたため、その縄張りからは熊野川を望むことができます。 f:id:tidus_tabilog:20201008102909j:plain

まるで沖縄の海のような色です。

この日は天気も良かったので、非常に良い眺めを堪能することができました。

かつては鉱山として栄え、この辺り一体は経済的にも豊かだったそうなのですが、最近はすっかり寂れてしまったと地元の方が仰っておりました。

最後に

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以上、和歌山県内の日本100名城と続日本100名城を紹介してまいりました。

実は他にも訪れたスポットがありまして……その紹介についてはまた稿を改めたいと思います。

それではー!


最後までご覧頂きありがとうございました。

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