2019年9月に連休を利用しまして、東海地方へと車を走らせ、東海地方の100名城巡りをしてまいりました。
静岡県や愛知県はすでにコンプリートしておりましたので、まずは三重県内の100名城巡りを行いました。
というわけで、本稿では、三重県の日本100名城と続日本100名城を紹介いたします。
三重県内の日本100名城と続日本100名城
三重県内で日本100名城と続日本100名城に選定されているのは、以下の6城です。
- 日本100名城No.47「伊賀上野城」
- 日本100名城No.48「松阪城」
- 続日本100名城No.152「津城」
- 続日本100名城No.153「多気北畠氏城館」
- 続日本100名城No.154「田丸城」
- 続日本100名城No.155「赤木城」
実際に訪れた順番は上記とは異なりますが、本稿では番号順に紹介してまいります。
日本100名城No.47「伊賀上野城」
まず最初は、伊賀市にある日本100名城No.47「伊賀上野城」です。
伊賀上野城の場所を地図上で示すとこちら
伊賀上野城は、1585年、筒井定次によって築城されましたが、筒井定次が除封されたのを機に藤堂高虎が入城しました。そして、徳川家康の命を受け、大坂城攻めの拠点とするべく、大改修を進めます。
豊臣氏が滅亡した後、藤堂高虎は津城へと移ったため、伊賀上野城はその役目を終えることとなりました。
伊賀上野城の天守は三重三階の木造模擬天守です。
なんと、1935年に個人が私財を投じて建築されたものです。相当な資産家だったのでしょうね。
現在、天守の中には藤堂家に関する資料が展示されており、(有料ですが)中に入って見学することができます。
上の写真の石段を登って左にある券売所にて日本100名城のスタンプを押すことができます。
「伊賀」と聞くと忍者を思い浮かべる人も少なくないと思います。
伊賀上野城にも、忍者の姿がありました。
ちなみに、伊賀上野城の近くには忍者博物館がありますので、お時間のある方は立ち寄ってみてはいかがでしょうか?
伊賀と並んで有名なのが甲賀の忍者です。
上の写真の方角に、山を一つ隔てたところに甲賀があります。こんなにも近い存在だったんですね。
さて、伊賀上野城の近くには俳聖殿と呼ばれる建物が建てられております。
こちらは松尾芭蕉生誕300年を記念して、1942年に建設された建物です。国の重要文化財に指定されております。
中をのぞいてみると、芭蕉の像が置かれておりました。
松尾芭蕉は伊賀の出身だったため、このように大事にされているんですね。
日本100名城No.48「松阪城」
つづいて、松阪市にある日本100名城No.48「松阪城」です。
松阪城の場所を地図上で示すとこちら
松阪城は、1588年に蒲生氏郷によって築城された城です。しかしながら、豊臣秀吉の命を受け、蒲生氏郷は会津へと移ることになってしまいます。
蒲生氏郷の後に入城したのが服部一忠で、その後古田重勝と続きます。
松阪城は、折を多用した石垣が特徴です。これによって枡形虎口が要所に作られ、城の防御力を高めていました。
おかげで本丸跡にまで辿り着くのに歩かされる羽目になりましたが(笑)
当時は三重の天守が存在しましたが、江戸時代の前期に倒壊してしまい、現在に至ります。
なお、松阪城跡は「刀剣乱舞」の撮影にも使用されたとのことです。
撮影場所は、上のような案内板が設置されておりました。
ちなみに、松阪城の近くには本居宣長ノ宮という神社がありました。その名の通り、「古事記伝」で有名な国学者・本居宣長に所縁のある神社です。
合格祈願や学業成就にご利益があるそうです。
続日本100名城No.152「津城」
ここからは続日本100名城になります。まずは津市にある続日本100名城No.152「津城」です。
津城の場所を地図上で示すとこちら
津城は、1570年に織田信長の弟・織田信包(のぶかね)が築城したのが始まりです。1594年、織田信包が丹波柏原へと移ったため、富田知信が入城します。
その子、富田信高が城主になると、関ヶ原の合戦では東軍側につくも、西軍に包囲されてしまいやむなく開城するに至ります。
関ヶ原の戦いの後、再び津城の城主となりますが、移封となってしまいます。そして代わって入った藤堂高虎が城主となり、治めることとなりました。
ご覧の通り、現在は公園となっており、市民の憩いの場所となっております。
園内には藤堂高虎の像が設置されております。
内堀や石垣が残ってはおりますが、滞在にはそれほど長い時間は要しませんでした。
続日本100名城No.153「多気北畠氏城館」
つづいて、津市にある続日本100名城No.153「多気北畠氏城館」です。
多気北畠氏城館の場所を地図上で示すとこちら
多気北畠氏城館は、その名の通り多気北畠氏の本拠の城です。築城者や築城年代は明らかになっておりません。
1569年に第8代・北畠具教(とものり)が織田信長に降伏しますが、1576年に謀殺されると、北畠氏館も廃城となりました。
現在は北畠神社となっております。
神社自体は江戸時代に創建されたそうです。
北畠神社の奥から、戦時の際の詰城であった霧山城への登山道があります。
実際に登りませんでしたが、それなりの格好でないと厳しい道という印象を受けました。
続日本100名城No.154「田丸城」
つづいて、度会郡玉城町にある続日本100名城No.154「田丸城」です。
田丸城の場所を地図上で示すとこちら
田丸城は、南北朝時代であった1336年に北畠親房が南朝方の拠点として築城したと伝えられている城です。
15世紀後半には、北畠氏に代わって愛洲氏が城主となり、その後、愛洲氏は「田丸」の姓を名乗るようになりました。
1569年、織田信長は伊勢へと侵攻し、二男・織田信雄に北畠氏の家督を継がせ、伊勢を支配するようになりました。
その後は織田信雄が田丸城を一時本拠地にしたり、田丸氏が城主になったりとしますが、1619年に紀伊徳川家の家老・久野氏が城主となり、幕末まで治めることとなりました。
現在は建物は残っておらず、主に石垣や天守台が残っているにとどまります。
こちらがその天守台です。
天守台からは長閑な田園風景が見えます。津城や松阪城と比べると非常に穏やかな印象です。とはいえ、当時は全く穏やかではなかったと思いますが……
続日本100名城No.155「赤木城」
最後は、熊野市にある続日本100名城No.155「赤木城」です。
赤木城の場所を地図上で示すとこちら
赤木城は、1589年に、1586年に勃発した北山一揆の鎮圧を目的として築城されたと言われている城です。築城者は、藤堂高虎とされています。
またしても藤堂高虎の名前が出てきました。
それだけ影響力のあった方だったということでしょう。
もっとも、江戸時代以降、改修の形跡等が見られないことから、一揆鎮圧後は廃城になったと考えられています。
赤木城は山の中にあるため、訪れるには自動車が便利です。
城跡には、数台ではありますが、駐車場が設置されております。ちなみに、スタンプはこちらには設置されていないので注意が必要です!
ご覧の通り、周囲は山や木々に囲まれている城です。
これまで見てきた他の城と比べると、守りに優れているとは思えませんでしたが、一揆鎮圧と目的とするならば、この程度の防御力でも問題なかったのかもしれませんね。
こうして三重県内全ての100名城を制覇してまいりました。
おまけ:丸山千枚田にも立ち寄りました!
さて、赤木城を訪れたのならば、もう一箇所、是非とも訪れたい場所があります。
それが、丸山千枚田です。
丸山千枚田の場所を地図上で示すとこちら
これまで、弊ブログでは何箇所か棚田を紹介してまいりました。そして、ここ丸山千枚田も外すことのできないスポットです!
赤木城を訪れたタイミングが丁度良かったため、丸山千枚田に到着した頃には日没まであともう少しというところでした。
夕日が棚田に当たって、稲が黄金に光り輝いているようでした。
これまで棚田を訪れた際には、あまりよいコンディションではなかった為、今回の撮影は満足の行く撮影となりました。(自己満足にすぎませんが……)
ちなみに、道は非常に狭いので、自動車で行かれる方は転落しないよう十分ご注意下さい。
最後に
というわけで、三重県内の日本100名城と続日本100名城、そして、丸山千枚田を紹介してまいりました。
本文でも紹介しましたが、伊賀上野城は忍者博物館が近くにあるので、お子さんがいらっしゃる方や外国人には喜ばれるかと思います。
今回は三重県だけでなく和歌山県や奈良県も廻る計画だったため、100名城と千枚田だけにしましたが、次回、三重県を訪れた際には伊勢神宮を訪れてみようかと考えております。
それではー!
最後までご覧頂きありがとうございました。
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