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鹿児島県内の日本100名城と続日本100名城を制覇してきました!

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※2020年11月1日更新

画像が表示されない不具合を修正しました。

2019年……ゴールデンウィークの後はJGC修行に明け暮れていたのですが、無事に解脱することができましたので、再びANA便で飛び回ることにいたしました。

しかしながら、ただ飛ぶのはもったいないので、日本100名城の攻城と、47都道府県完全制覇を進めることに。そこで、最初のターゲットに選んだのは、九州で最も南に位置する県・鹿児島県です。

というわけで、本稿では鹿児島県の日本100名城と続日本100名城の攻城の旅をお届けします。

鹿児島内の日本100名城と続日本100名城

鹿児島内で日本100名城と続日本100名城に選定されている城は以下の3つです。

  • No.97「鹿児島城」
  • No.197「志布志城」
  • No.198「知覧城」

後ほど、各城の地図を掲載いたしますが、位置関係で申しますと、知覧城が県の南西部、鹿児島城が中央、志布志城が東部という位置関係になっています。

どうやって効率的に攻城するか考えた結果、実際に訪れた順番は、次の通りになります。

  • No.197「志布志城」
  • No.198「知覧城」
  • No.97「鹿児島城」

別稿で紹介いたしますが、宮崎県の100名城も攻城した関係でこのような順番となりました。しかも知覧城と鹿児島城は二日目の攻城となります。

それでは、以下、各城について紹介してまいります。

No.197「志布志城」

まず最初に訪れたのは、続日本100名城No.197「志布志城」です。

志布志城の場所を地図上で示すとこちら

鹿児島空港到着後、レンタカーで直行したのですが、鹿児島空港から約2時間かかりました(苦笑)

志布志城の築城年代は判明しておりませんが、南北朝時代だった1336年には存在していたことが判明しています。南北朝時代には肝付(きもつき)氏と楡井(にれい)氏による志布志城の争奪戦が繰り広げられました。

その後は島津氏系列の新納(にいろ)氏が暫く治めます。(一時的に肝付氏に奪われる時期もありましたが、奪還しております。)

もっとも、豊臣秀吉が九州を平定した後は廃城とされ、江戸時代の一国一城令を受けて1615年に破却されるに至ります。

さて、志布志城は、内城、松尾城、高城、新城という4つの城郭から構成された山城です。もっとも、現在は民家が建っていたり、木々が生い茂っているなどして全てを見ることはできないそうですが、内城だけは登ることができるようになっています。

スタンプは、志布志市埋蔵文化財センターに設置されておりまして、こちらでは志布志城の全体像を再現したジオラマも置かれています。(入館料は無料です。) f:id:tidus_tabilog:20201101132900j:plain

ボランティアの方が志布志城の歴史について解説してくれました。

城跡に行ってみようとしたところ、ボランティアの方に「夏山なのでマムシ等に気をつけてください」と注意を促されました。そして実際に城跡の入り口にやってきてみたところ………

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マムシに気をつけろと言われたことも納得です。

流石に軽装では危ないかな?

と判断しまして、上まで登るのは断念しました。

No.198「知覧城」

二日目の最初に訪れたのは、続日本100名城No.198「知覧城」です。

知覧城の場所を地図上で示すとこちら

知覧城も築城年は詳細には判明しておらず、15世紀ごろではないかと考えられています。

鎌倉時代には、地名にもなっている知覧氏が郡司としてこの辺り一帯を統治していましたが、南北朝時代になると島津氏系列の佐多氏が治めるに至りました。1591年、佐多氏は海賊禁止令に反したため、知覧城を離れることを余儀なくされます。そして、種子島氏、島津氏による統治を経て、1610年に、再び佐多氏が地頭として統治することになります。 f:id:tidus_tabilog:20201101133055j:plain

スタンプは、ミュージアム知覧という博物館内に設置されています。隣にある知覧平和記念館は観光客が大勢訪れていたのに、ミュージアム知覧の方はあまり人がおりませんでした。

スタンプを押した後、城跡を訪れてみることにしました。 f:id:tidus_tabilog:20201101133110j:plain

すぐそばに駐車場があるので、車で訪れることができます。

さて、知覧城は、本丸、蔵之城、今城、弓場城という4つの曲輪で構成されており、各曲輪は空堀で区切られていて、それぞれ独立性の高い構造となっています。

空堀はシラス台地の浸食谷を利用して造られています。まさに天然の要害といったところです。 f:id:tidus_tabilog:20201101133156j:plain

これから城郭に行くというよりは山登りに行くという気分になります。

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途中、登城用の貸し出し杖が用意されていました。

いのししが出ては困るので、杖を借りて、大きな音を立てながら登っていくことにします。

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城跡は深い緑に囲まれております。鹿児島でこのような景色を見ると、ついつい屋久島を思い浮かべ、さらには『もののけ姫』も連想してしまいます。

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汗だくになりながら本丸跡に到着です!

他にも蔵之城、今城、弓場城といった曲輪がありましたが、普段着には辛かったのでここで断念。志布志城もそうでしたが、山城を登るたびに登山用のウェアとシューズを買おうと決心させられます。

ところが、実際には購入に至っておりません(苦笑)

No.97「鹿児島城」

最後に訪れたのは、日本100名城No.97「鹿児島城」です。

鹿児島城の場所を地図上で示すとこちら

鹿児島城は、1601年ごろに、島津氏によって築城されました。山城と館造りの居館を合わせた、ちょっと変わったタイプの城です。城郭一体は、西南戦争の舞台にもなりました。

現在、本丸跡には「黎明館」という歴史資料館が建てられており、二の丸跡には県立図書館が建てられています。

スタンプは黎明館内に設置されております。今回はレンタカーで廻っていたため、駐車場問題がありましたが、黎明館専用の駐車場を利用できるので、そちらを利用しました。

駐車場はアナログなシステムで、入り口で警備員さんに紙をもらい、それを持って黎明館に行き、黎明館でスタンプを押してもらい、出庫する際に警備員さんに渡すというシステムでした。

というわけで、黎明館に立ち寄り、100名城スタンプと駐車場のスタンプを押してもらった後に鹿児島城の遺構の見学です。北門から出まして、堀沿いに歩いていくと、北東隅の鬼門除けを見ました。

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石垣の隅が窪んでいることがお分かり頂けるかと思います。これには理由がありまして、

北東は鬼門にあたるため、石垣の隅を窪ませて<鬼門除け>にしてある

そうなのです。(引用元:『日本100名城に行こう』P.100)

なるほど、単に防御の為であるとか、あるいは見栄えにこだわったというわけではないのですね。しかし、窪ませるだけで鬼門除けとして効果があるのでしょうか?その辺りは謎です。

再び堀沿いに歩いてまいりますと、本丸の正門跡に到着です。

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かつては、こちらに城内で唯一の巨大な楼門が建っていたそうなのですが、現在は石橋が残るのみ。

ところが、写真をご覧いただくと、足場が組まれていたりと、何やら工事がされている様子。というのも、現在、楼門を復元するプロジェクトが進んでいるそうで、2020年3月の完成を目指して、鋭意工事中とのことです。

完成が楽しみですね!

最後に

というわけで、鹿児島県の日本100名城と続日本100名城を制覇してきました!

上のツイートの通り、人生で初めての鹿児島県です。レンタカーで周りの景色を楽しみながら回ってきたのですが、落ち着いた雰囲気でいい場所ですね。

今回は攻城がメインだったので、観光名所っぽいところはあまり立ち寄ってませんが、次回、鹿児島に行く際にはいくつか立ち寄りたい場所がありましたので訪れてみたいなと思っております。

さて、鹿児島県をクリアしたということで、47都道府県制覇まで、あと10県ということになりました。いよいよカウントダウンといった感じですね(笑)

それではー!

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