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山形県内の日本100名城と続日本100名城を完全制覇してきました!

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東北春の陣と称して、2019年のゴールデンウィークは東北地方の日本100名城と続日本100名城攻城の旅を行なってまいりました。

1日目は宮城県からスタートし、岩手県、青森県、秋田県と制覇してきました。

(なお、福島県は青春18きっぷ2019年春版で制覇済みです。)

残すところ、東北地方は山形県1県のみとなりました。

というわけで、本稿では、山形県の日本100名城と続日本100名城の紹介と攻城の様子をお届けいたします。

山形県内で日本100名城と続日本100名城に指定されている城

山形県内で日本100名城と続日本100名城に指定されている城は次の3城です。

  • No.10「山形城」
  • No.108「鶴ヶ岡城」
  • No.109「米沢城」

今回は、秋田県の日本100名城を攻城した後に山形県へと南下して参りましたので、実際に訪れた順番としては次の通りになります。

  • No.108「鶴ヶ岡城」
  • No.10「山形城」
  • No.109「米沢城」

本稿でも実際に訪れた順番で紹介いたします。

続日本100名城No.108「鶴ヶ岡城」

まず最初に訪れたのは、鶴岡市にある「鶴ヶ岡城」です。

鶴ヶ岡城の場所を地図上で示すとこちら

鶴ヶ岡城の歴史は、南北朝時代にまで遡ることになります。1463年に大泉長盛によって築かれた大宝寺城が起源となります。そして、大泉長盛の子孫は大宝寺氏を名乗るようになります。

もっとも、大宝寺氏は、上杉氏と最上氏の争いの中で衰退していきます。

1600年の関ヶ原の合戦の後は、最上義光の所領となり、大宝寺城から鶴ヶ岡城と改名されました。1622年に最上氏が改易され、旧領は分割されるに至り、鶴ヶ岡城には酒井氏が入城し、明治維新まで酒井氏が城主として続くという歴史を辿っております。

なお、戊辰戦争後に鶴ヶ岡城は解体されてしまいます。結果、現在では土塁や石積、二の丸の外堀が遺構として残っています。また、本丸跡地には、荘内神社が建立されています。

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こちらが、荘内神社です。鶴ヶ岡城のスタンプは、こちらの神社の社務所に設置されています。 f:id:tidus_tabilog:20210912141531j:plain

こちらは、1915年に大正天皇の即位を記念して建てられた大寶館です。戦後は市立図書館として利用されていましたが、現在は資料館となっています。 f:id:tidus_tabilog:20210912141550j:plain

鶴ヶ岡城の近くには、致道館と呼ばれる施設があります。

致道館は、1805年に、庄内藩の藩校として開校しました。名前の由来は、「君子学ンデ以テソノ道ヲ致ス」という論語の一節だそうです。 f:id:tidus_tabilog:20210912141609j:plain

建物内には、当時の教育に関連する資料が数多く展示されていました。

日本100名城No.10「山形城」

続いて訪れたのは、山形市にある山形城です。

山形城の場所を地図上で示すとこちら

山形城は、別名「霞ヶ城」と呼ばれており、現在は霞城公園となっています。

山形城は1357年に斯波兼頼によって築城されたと言われておりますが、江戸時代初頭に、斯波氏の後裔である最上義光が大規模な拡張を行い、さらにその後に鳥居忠政が改修したとされております。

現在は、本丸、二の丸、石垣、堀、土塁といった遺構が残るのみです。

また、公園内には、済生館本館と呼ばれた病院建築物が残されており、山形市郷土館として開放されています。 f:id:tidus_tabilog:20210912141645j:plain

なかなか興味深い構造になっておりまして、建物は中庭を取り囲むような円形になっています。

各小部屋は、内科や外科などの診察室でした。 f:id:tidus_tabilog:20210912141653j:plain

各診察室には、当時の医学に関する資料や医療機器などの展示もされていました。 f:id:tidus_tabilog:20210912141703j:plain

そんな中、オリンパスのPEN-Fも展示されておりまして…気になったので一枚撮影しておきました。 f:id:tidus_tabilog:20210912141711j:plain

複製されたものですが、蘭学事始の写本もありまして、少々興奮してしまいました。 f:id:tidus_tabilog:20210912141835j:plain

つづいて、本丸跡へとやってきました。

写真の中央に写っているのは、復元された一文字門です。大手橋を渡って、一文字門を潜ると、本丸跡を見学することができます。しかしながら、本丸跡が開放されている時間は決まっているので、見学を希望される方は注意が必要です。

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土塁と堀、そして石垣はなかなか立派なものでした。堀は空堀となっていましたが、もしかしたら当時は水が張られていたかもしれません。

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こちらは二の丸東大手門です。こちらも復元されたものになります。

なお、山形城のスタンプの印影には東大手門が使用されております。スタンプの印影に合わせたアングルで撮影してみました。

続日本100名城No.109「米沢城」

最後に訪れたのは、米沢市にある米沢城です。

米沢城の場所を地図上で示すとこちら

米沢城は1238年に長井時広が築城したと考えられています。

しかしながら、1548年に伊達氏が米沢に本拠を移すことになります。そして、米沢城は伊達政宗の生誕の地と言われています。伊達政宗は、1591年に豊臣秀吉の命を受けて岩出山城に居城を移すと、1598年に上杉氏の重臣・直江兼続の城となりました。

その後、上杉氏が米沢に居を移すことになり、明治維新まで上杉氏の居城として歴史をたどることになりました。 f:id:tidus_tabilog:20210912141934j:plain

そういうわけか、上杉謙信の銅像が設置されておりました。

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また、別の場所には伊達政宗の生誕の地の石碑も置かれていました。

ところで、山梨県では武田信玄を祀り、武田神社が建立されていましたが、米沢も上杉氏を祀ってのことか、上杉神社という神社がありました。

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まさか神として崇められるに至るとは……

そのカリスマ性を伺い知れます。 f:id:tidus_tabilog:20210912142037j:plain

観光に来られた方も参拝に訪れておりました。

最後に

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というわけで、山形県内の日本100名城と続日本100名城の紹介と攻城の様子をお届けいたしました。これで、東北地方は全県制覇し、全城攻城完了です!

山形県を訪れたのは、小学生の時以来ですので、もう四半世紀も前のことになります。

ところで、今回の東北春の陣は自動車で回ったわけですが、自動車には燃料が必要ですよね。今回の旅で一番ガソリンが高かったのが、米沢市でした。僕の自動車はハイオク車なのですが、米沢市のセルフ式のガソリンスタンドで給油した結果、171円/Lでした。

他の県のセルフ式で給油した際には、おおよそ154〜160円/Lだったことから、いかに高いかということがお分かり頂けるかと思います。おそらくですが、米沢市は山形県でもかなり内陸部にあるため、輸送コストが他の場所よりもかかるんでしょうね。その結果、ガソリンの価格に乗せざるを得ないのかと……

本当はわざわざ米沢で給油しなくても良かったのですが、ここで給油をせざるを得ない事情がありまして。

その理由については、次稿を読んでいただければお分かり頂けるかと思います(笑)。

それではー!


最後までご覧頂きありがとうございました。

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